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2006年07月18日

かたつむりとナメクジ

雨上がりのむっとする、初夏、

子供の頃、アジサイをみると
まだ雫のタマをつけた葉に奴らをよく見かけた。

でも、もう・・・いつものあの道でも、

アジサイが植えられているところで探してみるけど、なかなかみつからないんだ。

子供の頃の印象は、言ってみれば、

「かたつむり」は天使で

「ナメクジ」は悪魔であった。

調べてはいないけど多分両者は、親戚なんだ。

どっちが悪いとかそんなのないんだよ。

殻があるかないかでほとんど変わらない気がする。
それでも熱心に塩を持ってきては、一方へ振りかけていた。

無邪気は、時に残酷で痛烈だったりする。

イメージは格段に違う、今でもふと思い出すあの感じ
子供の頃持っていたあの感覚。

でも、思い出そうとすると、同時に湧き上がってくる、
少しずつ少しずつ失っていく寂しさと虚しさ

それだけ、他のものを得てしまったのだろうか?

これが大人ならすこし寂しい。

まだ感じれる、まだ、あの日の僕はここにいる。

そう思えたから、すこしうれしい。

雨の日、あじさい、かたつむりと、なめくじと、僕。

2006年07月09日

ボランティアについて

志魂塾でボランティアについての話あいをした。

ボランティアはどうあるべきか?
という問いかけにあって、それについて考察した。

ボランティアについてのイメージとして、
「良いもの」「人を助けることができる」「無料で奉仕」
のようないいイメージがあり、

また一方「自己満足」「弱者に対しての奉仕」
などのマイナスのイメージもある。

私の意見としては、最良のボランティアとは
「もちつ持たれつの関係を保った対等の関係」
であるとおもっていた。

昔、近隣の住民の生活は、なんの気なしにみんなわかっていてどこどこの何々ちゃんが、どこの学校へ通っているとか、誰と誰が結婚した。どこに誰が引っ越してきたなど。変な人がいれば注意し、泣いている子がいれば訳を聞いた。醤油が切れれば借りたり貸したり、いわゆる地域の目があって助け合う状況にあった。目の不自由な人、足の不自由なひとがいれば助けていただろう。これがある意味ボランティアだったのではないか?もちろん現在もこのルールが生きている地域はあるだろう。

「格差」

しかしよくよく考えてみると。

ボランティアにおける精神的な格差があるのが、現状の社会である。
余裕のある人が余裕のない人へ力を貸す事実から直視しなくてはいけない。
「してあげてる感」を払拭することは難しい。本人が否定する以外はないのである。

もちろん、全てが壊れてみんな同じ状況になれば。それだから省みず持ちつ持たれつのボランティアが生まれる。しかし、阪神大震災などの特殊な状況にならない限り、同じ状況にはなれない。
金持ちもいれば、健康な人もいる其の逆もしかりである。
 そして、外部から駆けつけるボランティアは、自分がもしそうなったらとか、自分が役に立てるなら、と仕事や学校をやすみ、各々の思いをもって駆けつける。やはり、別の見方をすれば、自分自身に精神的であれ、物質的であれ、余裕がないと人は人を助けられないのである。タイやインドネシアの大地震の被災地から同じ境遇だからといって自分の家をそのままにしてやってはこれないのである。

「募金」

そういった意味で、ボランティアの募金は、格差の中から生まれる構造であることを自覚するところから始めなくてはいけない。強者、弱者という表現は、正しいとはいえないのかもしれないけれど、余裕のある人が、余裕のない人へ、力をわけることをボランティアとして位置づける方が矛盾がないとおもう。それを認めたうえで、そのお金がどのように使用されるかを考えたい。
ボランティア団体がボランティアを雇うとは限らないからである。会社や派遣を雇う場合だってあるのである。

「ボランティア団体」

サービス内容が同じでも、ボランティア団体同士の中が悪いことだってある。
それは、目的意識が多少ずれてしまっている気もするし、
組織としてはそのやり方に損得が出てしまう場合もあるだろう。
会社と同じなのかもしれない。その行為によって国から賞を与えられたり、
ほめられたりすることの方が大きく取り上げられることだってある。
ボランティア内容をないがしろにし目的がそちらになる場合もある。

助けてあげているとか、その姿自身がきもちいいとか言うと、
高慢な意味合いが感じられるが、良いことをして気分が良い精神状態は、
社会に対しては悪くはない。ただ、この先のものの考え方を持たなければならない。

「心構え」

ボランティアを受ける側の心構えにも気を配らなければならない。

押し付けがましくボランティアされることは不快におもうかもしれないし

また逆に、ボランティアを受ける側として、自分は弱いから、受けられて当然である。うちの自治区には予算が無いので、受けられて当然である。次も待っていれば、誰かが助けてくれるという心構えになっていては、ボランティアはおかしな意味を持ってしまうというところである。 少し待てばそれがもらえるから、いいやとなってはいけないのである。ニートの精神状況と少しだけ似ているのかもしれない。社会を敵にして文句だけを言っている。でも静かにしていれば、親がご飯を食べさせてくれる。

片方は押し付けて、片方は待ち続ける、それでは、お互いが駄目だということなのである。

「ボランティアの形」

ここまで考えると、目指すべきのボランティア形とは、

生き抜くための知恵と機会を提供する場を作ればよいのではないか?。と考えられる。

物や食べ物を提供する場合、それだけでなくその使い方、作り方を伝えるということである。
そうすれば、教えられた方は、それをつかって自分で生きていける。次の機会には自分でそれを作れるかもしれない。
余裕のある側は、たとえ、自然にわきあがるものだとしても、自己満足であっても、利己的であっても、それが与える影響は、良いものであることになる。

対等の立場では、持ちつ持たれつ。そして学ぼう
格差の立場では、おばあちゃんの知恵袋の伝達。

お互いが学ぶことが報酬でなくてはならない。

だから学校を作るボランティアはベストに思える。

たとえ企業のイメージアップの一貫であっても、
利益のためであっても、それを行うお互いが学べる環境にあればよいと考えられる。

ゴミの仕分け、空き缶拾いは、環境を学ばせる。拾う者もそれを見る者も。

教育の意味合いが持てないならば、ボランティアはすべきでない。
とさえ言いたい。

お互いにとって良くはないのだから。

2006年07月07日

明大の学生

この所、終電に乗り遅れ、途中から歩いてかえることが多い。
黙々と歩く人。警察に自転車を止められる者。
疲れてうなだれる者、足早に急ぐ者、それぞれが帰路に着く。
この日も、いつもどおりテクテク歩いていたのだが、線路の脇を歩いていると突然話しかけてくる人がいた。「いつもこの時間すか?」
少し驚いたがそうだねーと答えると「きついっすよねぇー」
などとかなり親しげに話してくる。結構酔っているようだ。

話を聞くと明大の学生の2年でアイスホッケーをやっているのだそうだ。
体育会系なので授業にでなくても単位がとれる。

将来なんかやりたいことあるの?ときくと
「起業というかそういうのやりたいです。」
「 やっぱり夢はもたなくちゃだめっすよ、
そうじいちゃんがいってました。」

「目的が無くちゃ
生きていて楽しくないですもん。
楽しまなきゃだめっす」

前向きな姿勢なにか元気が出る

なまえなんていうの?

「トラです」

また出会えたならそれは運命だ